「わたし」はひとつ、それとも複数? (記:オシオ)

  数か月前にアマルティア・センさんというインド人の経済学者でアジア人として初めてノーベル経済学賞をとった人のアイデンティティーに関する本を読んだ。アイデンティティーを単数と思うのは大間違い、それでは現代の問題を解決するうえでは不十分、ヒトは持っている関係の数だけいろんな顔をもっている、だからアイデンティティーは単一ではないし、むしろアイデンティティーを単一とするべきという考え方はダメなのではないか、そういった主張だった。わたしにも思い当たる節があるので大いに共感した。そう思っていたら2週間ほど前に日経新聞の囲み記事で平野啓一郎さんが「個人」に対して「分人」という主張をされていると紹介していた。ほんの100字程度の紹介なので詳しくは分からないが、「これは面白い」と即座に思った。個人主義と対比させる概念として分人主義をたてているという。ここはセンさんと違う。夏目漱石は「個人主義」について終生悩み続けた。今の日本人もそうではないか。「わたしとは何か 『個人』から『分人』へ」という新書を買って読んだ。やっぱり面白い。平野さんは、なかなかの鉱脈を掘りあてたかもしれない。しばらく追ってみたいと思う。

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コメント: 1
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    輝やん (日曜日, 16 12月 2012 01:04)

    漱石が心理学や禅を踏まえながら、晩年に「則天去私」の方向へ向かったことは、とても興味深いことです。日本がまだ近代へ向いきる前に西洋を観、学校教師でも新聞記者でも小説家でもあった漱石。彼の作品や交流を想像したとき、「個人主義」から「私去」へ更には「則天」へと移った思想に想い馳せます。
    アイデンティティーが「単一」な人も居るのかも知れませんが、それは「特異な人」のように感じます。人間は複数の我の中で葛藤しながら生きているように思うのです。